御苑・外苑2010(5) [紀行]
さて、大手門方面へと足を進めます。
大手門を出れば、東京駅へと近づきます。
私は東御苑を北桔橋門より入り、天守台等を見学しながらここまで来ました。
そう、今私は江戸城の本丸に居た訳です。
天守台からも見えた、芝地や何もない(笑)松の廊下があったのが本丸。
私は今から本丸を出て、最終的に城外に出ますが、当然、お城なのだからその警備は厳しいものがありました。
最初の写真も門があった場所です。
門があった跡がよく分かります。
道もまっすぐじゃありませんね。
くるっと廻った先にあるのが
この建物。
大番所です。
番所は現代で言えば、警備室のようなもの。
今、東御苑には3つの番所が残っていますが、一番本丸寄りにある番所。中雀門と中之門の間(中之門より)にあります。
本丸に最も近く、最後の番所ということもあり他の番所より地位の高い与力や同心が詰めていました。
で、中之門。右奥に大番所が見えますね。
※私は本丸から外に出ている最中なので、一度中之門を出て振り返り撮影しました。
中之門を出て、目の前にとんでも無いものが見えます。
3つ残っている番所のうち、もう一つ。
どーん!
どーん!!
どーん!!!
長いですね。大きいですね。
この番所、その名も
百人番所。
案内板によると、文字通り百人がこの番所に詰めていたようです。
大手門から入り、本丸・二の丸に通じる要所にある為に厳重な警備を行っていたそうです。
鉄砲百人組と言われた「甲賀組」「伊賀組」「根来組」「二十五騎組」の4組が昼夜交代で詰めていたそうです。
各組に同心が100人ずつ配備されていました。
さて、さらに百人番所の前を抜けて、大手門方面へと行きます。
一番大手門寄りにある番所。
すなわち、江戸城に入り最初の厳重な警備の詰所。
同心番所。
※何度も繰り返しますが、私は本丸から大手門へ、中から外へと向かっています。写真は一度、同心番所を通過し、外側から撮影しました。
案内板によると、同心番所は百人番所や大番所より外側にある為、比較的地位の低い同心が詰めていました。
登城する大名の付き添いを監視する役目です。
ということはどういうことか?
ちょっと、調べてみました。
この場所からは御三家の大名以外はカゴや馬から降り、必要最小限の従者を連れて登城します。
残りの家来はこの周辺で戻ってくるまで待機をしている場所。だから、彼らを警戒していたのでしょう。
ちなみにそれをWEBで調べている際に知りましたが、「下馬評」はこのようなシステムから発生した言葉らしいです。
大名が馬から降りる、下馬先。そこで主人の帰りを待っている家来の噂話から「下馬評」という言葉が生まれたそうです。
さて、この写真を見て何かお気づきでしょうか?
たまたまグループの方々に説明していたガイドさん(ボランティア?)が説明していたほんの一部が耳に入ってきた。
間違いなく聞こえてきたのが、菊の紋と葵の紋
なるほど、この同心番所のこの位置だけに菊の紋が施されている。
先ほどWEBでこのことを調べてみたけど、言及が少ない。
江戸城(皇居)は徳川家から天皇の居住場所と変化したことに由来するということが何件か見つかった。
けれど、ガイドさんが口にした言葉。全部聞き取れなかったけど、それから想像したことの方が私は素敵だと思った。
そのガイドさんの言葉で私の耳に断片的に届いたキーワードが
「和宮」
1861年11月15日到着し、準備を整え12月11日に本丸(大奥)へと向かった。
恐らく、 和宮もこの同心番所の前を通り、百人番所の前を通り、大番所の前も通ったはず。
その中でも一番最初の同心番所。
様々な思いが駆け巡ったことでしょう。
ガイドさんから途切れ途切れ耳に入ってくる言葉から勝手に解釈すれば、政策に巻き込まれた和宮を思う一部の者の心が、目立たぬ場所に施したのかと思っています。
※あくまでも、勝手な解釈です。ハイ。
同心場所の前を通り、もう一度中へ。
同心番所が私の背中側、後方。
左に見えているのが百人番所。その先、右側の石垣が中之門跡で、その中に大番所、そして本丸。
さて、東京駅へ向うには、もう一度同心番所方面に戻り、大手門を出ればいいのですが・・・
先ほども説明しましたが、百人番所は本丸・二の丸への分岐点にある要所。
この写真、右側に曲がれば二の丸・・・・・・・
時間はあるのか?
どうする?
どうする?
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