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そうだ、京都歩こう(10) 時代を超えた落柿舎に関わる様々な人達 [紀行]

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さて、今回の紀行記事に度々登場してきた施設、『落柿舎』

やっと到着しました。

 

 

 

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25年前にも訪れた、松尾芭蕉の門弟、俳人向井去来の遺跡です。

畑越しに見た落柿舎は25年前と全く変わっていない気がしたが、そばまで来て分かりました。

綺麗になっている。

どうやら改修工事があったようです。

25年前、渡月橋のそばで借りた自転車に乗って到着した際には、おおお!いい雰囲気に古いなぁと思いましたが、今回はアンティークだけど小奇麗(笑)

25年前の嵐山・嵯峨野訪問時の中で強烈に印象が残っているのはなぜだろうか?

国語が苦手ながら、一句ひねって投句したからなのか?

果たして駄句は季刊誌「落柿舎」に掲載されたのだろうか?

今回、季刊誌「落柿舎」214号を頂きました。

こんな風に掲載されたのかなぁ。

と長年想い続けていました。

ん?

 

庭内の投句箱に入れられた全国の俳句から収録しました。掲載句は自宅へ郵送します。

と季刊誌に書かれている。

ああ、これまでずーっとずーっと、秀句まではいかなくても佳句に選ばれたかもしれない・・・という妄想は潰えました。

 

 

入庵料として200円を納めます。

入庵券と季刊誌を受付で頂く際に、落柿舎の由来や笠と蓑の意味、松尾芭蕉が三回訪れたこと、その際に書いた嵯峨日記の事を1分程度の時間でとてもわかりやすく、そして頭に残りやすく説明を受けました。

年末の休暇。仕事を忘れて旅を楽しんでいるのだが、仕事を思い出した。受付の男性の説明は何度となく繰り返されているのだろうが、相手に伝えるという技術は自分のスキルでは敵わないものでした。

25年前訪れた際には説明は受けなかった気がする。そして、しばらくすると若い女性二人連れがやって来た。先程、野宮神社で見かけた二人だ。

そして、先程の受付の男性は私にしてくれたような説明はしなかった。

どうやら状況を考えながら説明をしたりしなかったりしているのだろう。

私が訪れた際に他に客はおらず、受付でも後ろに人はいない。25年前と違いこの日は一人旅。それに対して、後から来た女性ふたりは仲良くお喋りをしながら入ってきた。そんな雰囲気を見てケースバイケースで説明しているようですね。

そう考えるとガイドが付いたようで私はラッキーだったのかもしれません。

 

 

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笠と蓑が吊り下げられています。

不在がちな主が在宅しているというサインです。

 

 

 

受付でカメラによる撮影を確認し、快諾をいただいています。

庵の中も撮影します。

 

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瓢箪

これは永井瓢斎に関係するのかな?

荒れた落柿舎を私財を投じて保存した面々の一人。新聞記者であり俳人でした。十世庵主。

 

 

 

 

 

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嵯峨日記

松尾芭蕉が48歳の時に門弟の去来の落柿舎を訪れた際に書き記した日記。

元禄4年4月18日から5月4日まで滞在しました。

他の門弟もやって来て、随分と楽しいひと時を過ごしたようです。

 

 

 

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庭に残された柿の木。

この庵の名前の由来となります。

40本あった柿の木。実った柿の木を売り渡す約束をした晩に風によって柿が落ちてしまった出来事が去来の「落柿舎記」に書かれています。

 

 

 

 

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柿主や梢はちかきあらし山

二世庵主である井上重厚が建てました。

俳人井上重厚は1770年に落柿舎を再興し、この碑は1772年に建立したものです。

季刊誌によれば、洛中で一番古いと言われている句碑だそうです。

 

 

 

 

25年前からあったのか?気がつかなかったのか?綺麗になったのか?

ちょっとしたスペースがあります。

そこに・・・

 

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そこから落柿舎を眺めます。

 

 

 

 

敷地内には多くの句碑があります。

 

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虚子

凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり

虚子の生前最後の自筆句碑 五七調ではなく破調ですね。

 

 

 

 

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昭憲皇太后

加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり

昭憲皇太后が嵯峨天皇の皇女・有智子内親王を称えた御歌。

有智子内親王が17歳の時、花宴の日に即詠で見事な詩を作り、周囲を驚かせたことを称えた歌です。

尚、いつも通りお墓はカメラで撮影したくない性分で、常寂光寺から落柿舎へ来た際に有智子内親王の御墓が落柿舎の隣にあることに気がつきました。

 

 

 

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芭蕉

五月雨や色紙へぎたる壁の跡

嵯峨日記の最尾に記した句です。

 

 

 

 

 

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芝蘭子

落柿舎の十一世庵主である工藤芝蘭子の句です。

永井瓢斎とともに私財を投じて落柿舎の再建に尽力しました。

元々は堂島の相場師だったそうです。

 

 

 

 

 

 

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栢年

足あともはづかし庵のわかれ霜

山鹿栢年は八世庵主です。

去来の死後、落柿舎の正確な場所は分からなくなったが、去来の句の情景に合う場所として天龍寺の塔頭である弘源寺の境内に再興されたそうです。1770年の事。

しかし、寺は土地の返還要求をし庵は寺のものに。

それから100年程経った頃、庵は売りに出されました。それを地元の方が購入し山鹿栢年に提供し栢年が復興させます。

 

他にも多くの歌碑が庭にあります。

 

こうして見ると、多くの人々が落柿舎の復興や維持に務められていることを分かりました。

一年間の来庵者は5万人だそうです。

訪問後に平成26年度事業計画書をみました。

入庵料 200円×50,000人=1千万円 だけでは維持できず、計画書の中に寄付金収入が折り込まれています。

大変ですが是非残して欲しいですね。

 

 

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さて、この雰囲気。

江戸情緒が残っていますね。

かつて、水戸黄門のロケに使わていたようです。

 

 

 

 

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西山荘ですね。

 

 

 

 

 

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しかし、平成26年度の事業計画書、事業活動収入の部を見ても施設利用料の収入予算が10,000円しか見込んでいない。

あ、そうか水戸黄門終わっちゃったもんね。

という事は10,000円は?

 

 

 

 

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そうだ、次庵があります。

この次庵を句会や茶会で使うことができるそうです。

室料はひとり700円(落柿舎自体の入庵料を含んでいます)。時間は13時~16時。

5名以上20人までです。

どうです?

 

 

さあ、次の目的地へ向かうか。

25年前はレンタサイクルで化野方面へ向かいましたが、今回は歩きで違う場所へと向かおうと思います。

 

 


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