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それぞれの3.11 [ライフ]

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一年前のあの時、私は仕事中で外回りに出ていた。

待ち合わせ、時間調整をしておりコンビニで買った飲み物(恐らくヨーグルト飲料)を飲み干し、容器をゴミ箱に捨てたところだった。

ちょっと、ごみ箱のある位置と、道路には段差があり、ちょっとふらついたような感覚を感じた。

道路上に両足で立った時に、自分が揺れているのではなく、地震が起きたんだと気が付いた。

間違いなく地震だと分かっているはずだが、ついつい空を見上げた。

実際には空ではなく、激しく揺れる電線を見ていた。


去年、私の見た空は青かったのだろうか?

それとも、雲が多かったのだろうか?

灰色の空だったのだろうか?


気温は覚えている。

あの日は、外回りに出るときはスーツだけでコートを羽織っていなかった。

歩いて帰る事を決意した時に、コートが必要だと思った。

という事は昼間は、多少気温が上がったと思うが、日が暮れるとともに冷えた。

それは、しっかりと覚えている。

 


去年の3月11日。

およそ2万人の命が失われた。

私が生まれてから、これだけの人が一日で亡くなったのは恐らく初めてだろう。

長崎に原爆が落とされた時以来の事だろう。




そんな事になるとは全く思っていなかったが、歴史的価値を見出すことが可能かもしれない古い我が家は無事であろうか?

そこにいる家族は無事だろうか?

すぎに思い立って、電話をかけた。

外にいるより、住宅の2階の方が揺れる。しかも、老朽化住宅だから揺れる。

ただ、電話の相手の悲鳴を聞いている限り、家はまだ耐えて住人を支えている。

ちょっと前に調べてもらったら、築年数を考えたらびっくり位しっかりしていると言ってくれた。

建売販売ではなく、注文つけて建てた親父に感謝。

 

結局、その通話を最後に携帯電話は電話としての機能を失い、いつ届くか分からないメールの発信装置となり、思い出したように数時間前のメールを受信する装置となった。携帯電話を使うようになって、電話番号を覚えることが無くなったので、貴重な電話帳でもある。その中でこの電話が一番の機能を発揮したのはワンセグだった。

公衆電話で会社に無事を伝えた。しかし、これから合流する会社の同僚と連絡が取れなかった。

携帯電話を持つようになり、待ち合わせも曖昧になった。近くまで着いたら電話するというのがよくあるパターン。
この近所でお互いがお互いの得意先と商談をし、終わり次第合流。私の異動に伴い、引き継ぐ得意先に一緒に行くはずだった。

おそらく、目の前の建物群のどこかに同僚はいるはずだが、彼は出てこないがヘルメットを被ったそこの社員が次々と現れた。新旧色んな建物が敷地内にあるが、古い建物はある程度揺れると非難ベルが鳴ると後から聞いた。

そこの社員や、他の会社の人達も次々と外に出てきて、近くにある公園へと人の流れが出来ていた。


同僚とは暫くして、合流することが出来たが、電車・地下鉄は間違いなく止まっているはずだ。

15時半唐16時頃の道路はまだ普段と変わらなかった。都営バスも普通に動いていた。
もし、会社まで一回くらいの乗り換えで着くなら乗ることも考えたかもしれないが、そこから会社までバスがどの様に繋がっているか皆目見当つかない。乗るならタクシーかもしれないが、まずは情報収集と思い、ワンセグを点けると、とんでもない映像が飛び込んできた。同僚の携帯電話はiPhoneでワンセグ機能は付いていない。(ちなみに私はワンセグ・赤外線・おさいふ機能付きのガラケー)

公園に入り切れない避難者達も遠慮しながら私の携帯を覗き込んでいる。画面に映る惨状に悲鳴を上げ、余震に悲鳴を上げ、目の前の建物の壁面の一部が落ちてきて悲鳴が上がる。

私は今居る場所から会社と自宅は角度45度以内には入る。大雑把に言えば、まあ同じ方向。それに対し、同僚(後輩)は会社と自宅は正反対。子供はまだ幼稚園。時間から推測すると、普段であれば迎えに行っている時間だ。だが、奥さんとは連絡が取れない。公衆電話から自宅にかけても不在だった。

もともと陸上競技・・・それも長距離が得意で東京マラソンも時間内余裕で走り切った力量があり、20km位走って帰る事も可能だった。わざわざ会社に向かっても、定時を過ぎてしまう。なら、自宅に向かうべくだと彼を見送った。

私は会社と自宅、どちらでも行けるようなコースを歩き出したが、携帯電話で何とかつながった電車運行状況を見ると、最寄駅を通る地下鉄の運行中止については掲載されていなかった。

Uターンに近い方向転換をして、駅を目指す。だが、地下鉄の駅に着くまでなく止まっていることが分かった。駅入り口に沢山の人が屯っている。一応、情報収集をする為に駅に向かう。そこで得た情報は全ての地下鉄・電車が止まっており、再開の目途が立っていないという事だ。

再び会社・自宅方面へと歩き出す。すぐにコンビニを発見。直前に読んだ、福井晴敏氏の「平成関東大震災」を読んでいた。水と固形食糧を購入する。「平成関東大震災」でも主人公が新宿から自宅まで歩いて帰るが、その時にこれは持っているべきだと書いてあったが、全部を思い出すことは出来ない。結局、水とカロリーメイトだけ買った。

唯一運行していた公共交通機関である都営バスもだんだんと乗客が増えていった。停留場にも人が並んでいる。多分、人が乗り切れなくなるだろう(実際には、道路が機能しなくなる)

どこかで電車が動くのではないかと期待しつつ、JR・地下鉄が集まる地区を選んで歩いたが、会社と自宅どちらに向かうかで別れるポイントに着いた。
少し並んで公衆電話で会社に電話をする。電話はつながっているが、誰も出ない。時刻は17時頃。なぜ、出ない?

日が傾き、少し寒くなってきた。このまま自宅に向かっても3時間はかかるだろう。コート無しで大丈夫だろうか?
会社に繋がって、自宅に向かうことを伝えたなら会社には戻らなかったかもしれないが、コートの事も含めて結局会社へ足を向けた。

後から分かったことだが、その日休みだった上司は直属の部下全員に連絡を取ろうと試みており(会社にも連絡を入れていた)、電話とメールを駆使していた。(所在地次第だが、帰宅許可というメールは夜中に携帯に届く)

会社まで歩く間、情報収集。しかし、バッテリー残量が気になり、電力消費量が多いワンセグは極力使わなかった。

 

 

実はそのルート上に、今思い出すと寄って行けばよかった店があった。
あの日、随分と自転車が売れたそうだ。私も途中気が付いて、あれば買っていたかもしれない。(しかし、歩道が人だらけで危険で走れる状態ではなかったので買わずに正解だった)
あったのは自転車屋ではなく、靴屋だった。スニーカーを買えば随分と楽だっただろう。

計画停電やトラブルで電車が止まる可能性がしばらく続いた。その間、家からスニーカーを会社に持って行ったのは後日談。

 

会社に戻ると、営業車を使い方向別に女性を送る段取りをとっている最中だった。
その日は歩きでの営業だったこと、歩いて帰ったため会社に戻ったのが18:30過ぎだった為、運転手には選ばれなかった。(そういや、私の家の方向に住む社員って、他の方向より少ないかもしれない)


総務部が水分と食糧を慌てて買ってきたようで、腹ごしらえを始めた社員もいる。
普段、電車で2時間位かけて通勤している同じ課の女の子が諦め半分でインスタントラーメンが出来上がるのを待っていた。
その時、男性社員がその女性社員が住む方面へ車が出ることを告げに来た。エレベーターも止まっていたので、彼の息は上がっている。
女性社員は、まさに3分経ったインスタントラーメンを私に寄越し、慌てて駐車場へ向かう。

私はインスタントラーメンを食べる。

 

その時点で会社にいる人間は半分位。
政府が無理して帰らないようにと言いだした時間は分からないが、私は歩いて帰るつもりだった。
得意先や取引先の情報を集めようとしても、全く把握できない。
仕方なく、地震の全体イメージをパソコンで情報収集。他の社員とも話をするがあまりにも規模が大きい事態なので何が本当の事か全くわからなかった。市原のコンビナートが燃えている事は分かった。その炎による明りは歩いて帰る際に海の向こう、空の色で思い出すことになる。

 

20時の時報を聞き、会社を出る。
その時点で残っているのは、会社に泊まる覚悟を決めた者ばかり。総務部が非常食料を各フロアに配り始めていた。

外回りから帰る際に、まっすぐ家に向かえば、20時に家に着いていたかもしれない。
色々悩んだことが遠回りとなり、既に3時間歩いていた。
会社を出て、家に向かう時にも私はミスを犯した。普段から営業車を使い、ある程度道を知っていた。
だから、地図を見る事も無かった。東京の道は必ずしも綺麗にまっすぐ道は走っていない。
本当の最短ルートは、自分の認識外にある。しかも、やっぱり電車が動き出すことを期待していた。
地下鉄や電車の駅から近いルートを選ぶことにより、やや遠回りとなってしまった。

地震直後のブログにも書いたことであり、繰り返しになってしまう事が多いのですが、ご了承ください。

 

その日、私は一眼レフを持っていた。今、普段遣いしているカメラでなく、後輩に貸していた前の機種。
何もそんな日に返さなくても・・・と思うが、実際は朝返してもらっているから、後輩は悪くない。

カメラバックも貸してあったので、襷がけにしてカメラを持って帰る。
カメラにはEF50mmF1.8Ⅱを付けてあった。私の持っているレンズで一番安く、でも一番明るいレンズだった。
そのレンズであれば、殆ど動かない車のヘッドライトと街灯で十分撮影も出来たけど、カメラバックからカメラを取り出す気持ちは全く湧かなかった。黙々と歩くだけだった。

家族からメールが届く。
比較的近くに住んでいる、兄の家に一族が集結しているという。しっかりしていると言え、老朽化の目立つ我が家より、兄の家の方が余震が続く中安心だった。兄とも連絡が付かないと言う。(兄は茨城に居たことが後日判明)

メールに返信するが、いつ届くやら・・・。

ちなみに、兄の家には女性しかいなかったが、揃いも揃って地図が読めない人達だった。
男共の勤務地や帰宅ルートなど皆目見当が付いていない。



地図が読めないのは兄貴の家にいる連中だけでなかった。
携帯電話やスマートフォンで地図アプリを起動している女性が路上にいっぱいいる。
普段、電車に乗っていれば目的地に着く人たちにとって途中は覚える必要は無かった。
地下鉄の場合は窓越しに風景を見る事も無いので、なおさらだった。

男の人が、あえて自分が進む方向を誰に言うでもなく大きな声でおしゃべりをしているのは配慮かもしれない。

ある程度、地下鉄や電車の駅のそばに立ち寄り、運行再開を期待しながら歩いたが、途中でその期待を捨てた。
動き出しても、すぐに乗れるか分からない。歩こう。

 

会社に戻るのに3時間ちょっと。家に帰るのに約4時間。
歩けばいいやと思ったのは、カメラを持ってブラブラすることが日常だったからかもしれない。
普段、カメラを持ってブラブラしても、そこまで歩くことは無かったが、目安にはなった。
撮る気にはならなかったけど、カメラぶらぶらと同じようにカメラバッグを持っていたから歩きやすかったのかもしれない。


カップラーメンを食べたけど、カロリーを消化したからか、普段とは違う環境だったからもしれないが、小腹がすいた。
コンビニに寄ろうとするが、簡単に食べられるものは全て売り切れだった。
それ以上に驚いたのが、トイレに並ぶ人達。特に女性にとっては深刻な状況だった。

その後、幹線道路沿いを歩くが、お店と人の力を見た気がする。

非常時には食料提供を真っ先に買って出ている大手チェーン店・ファストフードはパート・アルバイトが出勤できない為、臨時休業していた。それに対して、個人商店は出来ることをしていた。マッサージ店がトイレ解放をしていた。コンビニや公共施設だけではトイレが足りなかったから、たかが、一つのトイレでも大きな事だった。
オシャレなバーも気温が下がった夜の空気が入る事などお構いなしで入口を解放し、トイレを解放した。

具体的な名前を出すと、ヤマザキデイリーストア(コンビニ)だが、その店も本部調達、トラックで運ばれてくる食料品は棚からすべて消えていた。
ただ、そのお店の特徴はオーナー一家が店を切り盛りしていた事。そして、店内調理でホットスナックを用意することが出来た。女性に対して失礼だけど、恐らく70歳位の女性がレジの中に居た。家族(娘か義理の娘)だろうと思われる女性がフライヤーの前で次々に揚げ物を作り続けている。レジの中でおばあさんは、おにぎりやサンドイッチが無い事を自らの失態の様に詫び、揚げ物位しか用意できないけどよかったらどうぞと声をかけ続けている。レジで会計をするたびに、お客さんに向かって声をかけ、「どこまで帰るの?」「気を付けてね。」と励ましてくれ、見送ってくれた。

疲れた体に、串刺しにされたから揚げは微妙だったけど、あのおばあちゃんの励ましは効いた。

 

立ち止まると、疲労物質が溢れると思い、おばあちゃんのいるデイリーヤマザキ以降は歩き続けた。
日付が変わった頃、自らの街に辿り着き、誰もいない自宅に到着した。

正直、ある程度散乱していることを覚悟していたが、殆ど被害は無かった。
食器棚の中も、皿やグラスが乱れてはいるが、ひとつも破損していなかった。

ほっとするが、心配しているだろうから兄貴の家へ向かう。
その前に、翌日の筋肉痛防止の為に足をエアサロンパス漬けにした。

 

兄貴の家に着くと、やはり女性しかいない。
兄貴は無事らしいが、帰って来られないとの事。どこにいるのか、兄嫁に聞くもよく分からない(地名を言われたが、覚えられなかったらしい)

聞かれると思ったが、やっぱり何時間歩いたのか聞かれた。
2時間位で着くと思っていたらしい。
あの・・・・普段の通勤時間を考えれば、それは無いだろう・・・・って地図が読めないし、仕方がないか。

 

 

余震も気になるが、自宅に帰った。
14:46の時には鳴らなかった携帯の緊急地震速報がよく鳴り、明け方には長野で2回大きな地震が発生した。
既にスーパーなどでは食料や備品確保の動きが出ていたが、まだ棚に何も無いという程ではなかった。


で、今でも覚えているが本来なら、テレビを池袋の家電量販店に取りに行く日であった。
そう、同僚と待ち合わせをする直前、池袋で地デジ対策で外付HDD録画対応のレグザを買っていた。
配送をお願いしたら、地デジフィーバーだったから配送は随分と先になると言われたため、車で取りに行くことにしたのだった。

3月12日、店に電話をした。もしかしたら、休みかもしれないと思ったがちゃんと営業していた。
昨日の今日なので、取りに行けない旨を伝える。

余震も続いていたが、首都高速の渋滞状況を調べると空いている。確かに行楽に出かけている連中はいない。
思い切って池袋へ向かった。普段からは想像できない空き具合だった。

池袋に到着。とにかく、テレビを受け取ってすぐに帰るつもりだった。
あらかじめ電話をしていたので、店の真ん前に車を着けたらすぐに積み込んでくれると言う。
到着して車を降りた瞬間、携帯が緊急地震速報をけたたましく鳴らした。
しかし、もう慣れっこになりつつあった。
店員さんが荷台に積んでくれた。すぐに帰る。

帰りの首都高速もすいていた。
自衛隊の車両とすれ違う。
さらに、しばらくすると今までに見たことが無いくらいの消防車両と救急車とすれ違った。
被災地へと向かっていくのだろう。
テレビを運んでいる自分が恥ずかしくなった。






テレビを受け取った3月13日(日)
夜になり、翌日から計画停電(輪番停電)の実施が発表された。
この記事で一日でこれだけの日本人の命が失われたのが、戦争以来だと書きましたが、計画停電(のような統制)も戦後の混乱期以来のことでしょう。

「平成関東大震災」を読んでいたこともあり、地震に備えて懐中電灯等用意していたが、連日のように停電が続くことは想定しておらず、懐中電灯が足りなかった。とくに、真っ暗な部屋で作業しやすいようなタイプ(ランタンのような物)は無かった。

そして、案の定、懐中電灯及び乾電池が市場から消えていくこととなる。

 

果たして、電車はどうなんだろうかと思いつつ、早めに家を出て出勤する。
仕事上の情報は当日集まらなかったが、月曜日以降徐々に集まりだす。
仙台支店と関連会社の状況も見えてきた。

 

仕事面でいうと、地震直後は得意先も自分の会社や営業所、ユーザー、設備等の確認もあり、当方からの商品提供が出来ない状態も理解しれくれたが、しばらくするととにかく納品してくれと迫ってくる。

自社の倉庫は液状化でトラックで乗り入れることが出来ない。倉庫内は危なくて入ることも出来ない。
取引先の倉庫も、同じようなもの。
そして何より、東北三県に生産拠点を持つ取引先も多く、東京の拠点倉庫でまともな物を使い切れば、次の入荷は全く予想できない。

 

自社倉庫の状況把握が始まった。
業者が入り、社員も完全武装の上入り仕分けをすることとなった。
私が向かったのは、温度が上がり続けた原発に自衛隊がヘリコプターで海水を汲み上げ、数回撒いたあの日だった。

仙台支店に向けて救援物資を自宅から集めたのもこの頃だった。

 

補充が出来ない不安がありつつも経済活動・・・さらには被災地支援のためにも無事な在庫の出荷が始まった。

我々が商品を補充できないのと同じように、ガソリンスタンドにガソリンが補充されない。
やっと仕分けした商品を運ぶのに往生した。
営業車はハイブリッド車に変更が進んでいたため、随分と助かった。
しかし、トラックは軽油を相当使う。
春分の日の3連休で、多少持ち直したが結局3月いっぱいは厳しい状況が続いた。

ガソリンスタンドにマイカーの給油渋滞をあちこちにスタンドで見かけたが、ハイブリッド車両ではない私の車には一滴もガソリンを補充しなかった。
仕事や介護、色んな事情で給油したい人もいただろうけど、果たして満タンに入れた人の半数は入れなくても乗り切れたのではないのかな?

この頃、不足したものが水。

報道された瞬間から、買占めが始まった。
西日本で水をまとめ買いしただけで叩かれた芸能人もいましたね。

 

異動辞令を貰っていたので、引き継ぎをしなくてはいけないのだが、旧来の得意先も混乱している。
新しい部署で引き継ぐ相手は転勤者。
優先順位は転勤者から引き継ぐ事。転勤期日が決まらないが、とにかく進めるしかない。

結果から言えば、過去最低なクオリティの引き継ぎとなってしまった。
言い訳には出来ないのだが・・・。

 

4月、仙台支店では何とか営業再開を目指していた。
生活面でも不自由な中、どうにか倉庫にある被災品を処分し、良品だけを整えた。
その直後、4月7日、最大余震が東北を襲った。

再び積み上げた商品は崩れ、仙台支店の社員の心も再び折れた。
取引先でも、被害の少なかった設備をどうにか修理し、動力を入れてテストを始めた直後の最大余震。
また、復旧の見込みが立たなくなった。

 

 

会社も自宅も節電がキーワードとなった。
会社では今でも、あの時の節電状況から変わっていない。
エレベーターも照明もそのまま、節電。
会社としては節電協力というより、経費節減効果の方がモチベーションとなっているようだ。

 

募金についても、色々思う事はあった。
自分なりに納得できる方法を取った。
しかし、世界中の人々の暖かい支援に涙が出てきた。
世界の中の日本って、近年どう思われているのだろうか?と思っていたけど、本当に暖かい支援を貰いました。
「政治的な要素」のある支援表明もあったけど、たくさんの無償の愛を頂きました。
被災者の皆さんにどのように渡ったか、わからない部分もありますが、どうか有効な活用をお願いしたい。
そして、被災者の皆さんも世界の友人達に感謝していると思いますが、大きな被害を受けなかった者も日本人として世界の友達に感謝して、その事を忘れてはいけないと思う。

 

1年という長さは傷を癒すには短すぎる。

1年経っても、進まぬ復興に苛立ちを感じる。

1年もあれば、簡単に記憶の風化が進む。

丸一年。テレビや新聞、雑誌など地震の特集が組まれる。やや、気持ちが滅入るが、忘れないためにも目を背けてはいけないのでしょうね。

 


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コメント 2

saki

多くの方に様々な思いがありますね。
目を背けてはいけないとも思いますが。
ただ、精神的なダメージを受けた方も。
支援活動の際は必ず精神科医が同行しました。
直接の被害が無いので、無責任な言動にならないか気になります。
by saki (2012-03-12 20:31) 

maeboo.

sakiさん、こんばんは。
沢山の報道番組を見て、一年経ちましたがやっぱり遅い気がしますね。
災害に強い街づくりを協議している間に、足を前に踏み出そうとしている人を引き留めてしまっているケースもある。
沢山の生活があるからこそ、一括りには出来ませんよね。

by maeboo. (2012-03-12 22:35) 

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