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敷島の、大和ごころを人問わば、朝日に匂う山桜花 [歴史と出会う]

また戦記に関することです。興味の無い方はスルーを

今日から(?)知覧の特攻隊と富屋食堂の鳥浜さんに関する映画が公開されるのかな?

先日、出口のない海の話をした時に、コメントで「守るべきものがあれば行く」と言いながらもあれ以降ずっと考えていました。
納得できれば、人は行動できます。それが特攻であっても納得出来れば・・・。

以前買って読んだ本を引っ張り出しました。
神風(しんぷう)特攻隊に関するノンフィクションの本は数多いですが、小説は実は少ない。
1991年に公開された「北緯15度のデュオ」。知覧の陸軍の特攻ではなく、当初海軍の特攻の部隊となった場所、フィリピンでオールロケされた映画です。
制作費の関係で描ききれない部分をこの本で描いています。

読んでみて思うのは実名で搭乗し、事実が殆ど描かれている中に小説要素が入っている。
なので垣根が分らないことがある。でも、言い換えれば、そんなに大差ないことがそこで起きていると考えていいのでしょう。

1944年10月19日 赴任してきた大西中将により爆弾を抱いた零式戦闘機で敵空母に突入。
この作戦が採択され、その晩、201空の下士官以下搭乗員に告げられます。

背景としてフィリピンに上陸してきた米国の輸送船と上陸軍に対して戦艦大和・武蔵の巨砲で痛打を与える。
ただ、もう日本海軍にはマリアナ沖海戦や台湾沖航空戦で空母や搭乗員の多くを失っていました。
航空機の援護の無い艦隊を無事にレイテ湾に突入させる。
海軍はこの作戦のために航空機を殆ど積んでいない瑞鶴などの最後に残った空母を中心にした機動部隊を囮として、主力から引き離す。
そして、陸上の基地から特攻機を出発させ、敵の空母の甲板にダメージを与え沈没させる。もしくは、レイテ突入時には使用不可能とさせる

この作戦は後顧に憂いのなきように、海軍兵学校出身の指揮官が必要でした。
首脳が適任として選出し志願させたのは関大尉でした。
先の移動命令で戦闘機隊にやってきた関大尉は本来艦上爆撃機の搭乗員。移動以来艦爆が無いのだから搭乗することは一度もなし。零式戦闘機でもいいから載せてくれと嘆願するも、艦爆乗りに戦闘機は扱えないと却下されていました。
その関大尉が適任であるとしているのです。

翌朝、編成が決められます。部隊を四つに分けて「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」
そして、各隊で爆弾を抱き突入する爆装要員と誘導・戦果確認をする直掩要員に分けられます。
特攻隊で中で必死を命令されるものと、必ず生き返って報告を命令されるものとに分かれるのです。
ここで一丸となっていた搭乗員の中に見えない溝が生れます。

基地本部があるマバラカット基地はレイテから遠い。
セブからなら比較的近い。そこから出発させればいいのだが、最初の特攻隊の総指揮官、関大尉は敷島隊の隊長でもある。その指揮官を本部ではないところへは置けない・・・という体裁を気にしてセブには大和隊を移動させます。
ただ、これが後から微妙に作用します。

10月21日、敷島隊と大和隊に出動させます。
ただ、距離はあまりにも違い、大和隊の方が先に敵接するはずです。

敷島隊は結局、敵機動部隊を発見出来ませんでした。
関大尉は帰投を決意します。その時、グラマンが現れ直掩の一機を落とします。
別の直掩機が爆装機から離れてはいけないという命令を無視して敵機を追いかけ撃墜します。

燃料が僅かの敷島隊は最寄のレガスピに基地に戻ります。
そして翌朝、マバラカットに戻り報告します。
報告を受けた関大尉は大和隊も敵機動部隊を発見出来なかったこと。指揮官の久納中尉は帰投を命じた後、本人は再び引き返して戻らなかったことを知りました。
関大尉には「なぜ帰ってきたんだ」と聞えたのです。

また、死を命じられた爆装要員が生き返り、絶対生還を命じられた直掩機が落とされたのです。

久納中尉の戦果は確認されていませんが、重巡に被害を与えた可能性が戦後推定されています。
しかし、海軍はあくまでも敷島隊を初の特攻戦果としなくてはいけなかったのです。

首脳たちは、レイテ突入予定の25日未明が迫ってきたことの焦りと、特攻のさきがけとなる敷島隊がまだここにいることに焦るのです。

二回目の出撃は10月23日。これも悪天候のために帰投してきました。
基地での敷島隊への視線は厳しかったかもしれません。

 

この201空の搭乗員は日々戦闘の中で常に死と隣りあわせで、戦死の覚悟もしていたのですが、そこには本当に僅かでも生還の可能性は残っていたのです。
しかし、10月19日の夜中に告げられたのは、百死零生の命令でした。

10月25日、レイテ突入予定日。最後の敷島隊の出撃が行われます。この本では3度目の出撃、他に四度、いや毎日出撃したとも言われています。(常に待機して、とにかく出撃させたいという首脳の焦りがあったのは事実)
今度は首脳も万全を期して、エースクラスの戦闘機乗り、西澤飛曹長を呼び寄せて直掩・戦果確認にあてます。

空母一隻を撃沈、一隻を大破、二隻を中破しました。

先に発進したセブからの大和隊に関しては戦果を確認出来ていません。
その後編成されていた菊水隊はダバオから出撃しており、実際に戦果を挙げていますが戦果確認が遅れました。
よって、敷島隊が予定通り最初の特攻戦果と認定されたのです。

特攻はその後も続けられ、陸軍でも行わます。
戻って来れない特攻機には予備学校出身の技量の少ない指揮官があてられます。
技量のある搭乗員は、本土防衛や基地防衛の為、失いたくないのが本心なのです。
命令を出す側の場所を守る搭乗員は技量のあるものを置きたかったのでしょうか?

「納得したら行くかも知れません」という言葉には変わりありませんが、こんな状況で納得は出来るのでしょうか?
やはり、こんなことにはならないように最大限努力をしなくちゃいけないと分ったのです。

そして、多くの人たちが、自分なりに愛する家族や人たちの為にと心に刻み、飛び立ったのです。

 

 


小沢艦隊の囮作戦は成功しますが、栗田艦隊は反転しレイテには突入しませんでした。
このことはいずれ記事に書くかもしれません。

栗田艦隊で大和に坐上していた宇垣纏中将は終戦時、第五航空司令部にいました。
玉音放送を聞いたあと、鹿屋基地で彗星艦爆特攻仕様を五機用意するように命令します。宇垣中将自ら乗り込むつもりです。
701空は11機の彗星を用意しました。零戦の爆装と違い、二人乗りの機体です。
その11機全機に定員が、いや、宇垣中将が乗り込む機体の偵察要員は降りることを拒み、結局狭い中3人で飛び立ちます。
最後の特攻は戦果は確認されていません。ただ、停戦命令以降の特攻ということで色々言われています。


敷島隊の戦果を確認した西澤飛曹長達は、零戦を特攻機に使うと言われて接取されます。
マバラカットには西澤さんが輸送機に便乗して向かいます。操縦桿を握っていたとも言われます。
着陸寸前に敵戦闘機に襲われました。
かつてラバウルで大空のサムライとして有名な坂井三郎さんと共に戦ったエースも輸送機ではどうする事も出来ませんでした。


大西中将は終戦翌日に自刃します。

『特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念は遂に達成し得ざるに至り。
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして、軽挙は利敵行為となるを思ひ、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誡めともならば幸いなり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は国の寶なり。平時に處し、猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せよ』

これが遺書でした。
自殺は決していい事ではありません。
特攻の生みの親とされている大西中将ですが、彼一人でこの非人道的な作戦は行えません。
そもそも大西中将は特攻を外道と言っています。
その外道の作戦の指揮を取らざるを得なかった状況だったのです。

大西さんの時世の句です。

『之でよし百万年の仮寝かな』

自殺という方法で苦痛から逃れる術があります。
しかし、大西さんは敢えて永眠の道を選びませんでした。大西さんがゆっくりと熟睡出切るのは100万年後です。

まだ戦後62年。仮眠からたまに起きて目に映る今の日本。
自らの福祉と世界和平に全力を尽くしていると映っているのでしょうか?


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コメント 2

かず

戦争を経験した方から見れば,嘆かわしい状態でしょうね。今の日本は。
目先のこと,楽なことばかりを追い求めているように映るでしょう。
戦争状態にならないことを祈るばかりではなく,日々の行動で,自分の周りから良くしていかないといけない,ということでしょう。
by かず (2007-05-15 19:59) 

maeboo.

かずさん、今は過去を切り離して考えることは出来ないんですよね。
いろんな事があって、今がある。前を見て進まなくてはいけないんですが、通ってきた道を振り返らないと、また同じ過ちを犯してしまう。
これは自らにも言えること。自戒。
by maeboo. (2007-05-16 11:47) 

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