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東京が燃えた日 [歴史と出会う]

以前、この公園のことは記事にしたことがありましたね。
いつか、ゆっくりと訪れたいと書いておりますが、今日、ゆっくりと伺うことができました。

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ちょっと平べったく、でも高い高い建物が目立ちますね。
でも、並木を抜けて右に少しだけ映っているのが、慰霊堂。
並木の左側に見えるのが、復興記念館です。

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式典の準備が進められているようです。
この写真では、右側が復興記念館です。今日は中に入りました。

もともとは陸軍の土地でしたが、東京に払下げされます。
東京都(いや、市)は公園にしようと計画をしますが、関東大震災が起こります。
公園を作る前の空き地だったこの場所に被災者は避難してきます。
地震で発生した火災は各所で起きますが、この避難場所で嵐のような火災となり逃げ場を奪います。
ここに避難した方々のほとんどがその炎の嵐で亡くなられました。関東大震災で亡くなられた方のおよそ3分の1が、ここで亡くなられたのです。

公園計画は納骨堂・慰霊堂の建造へと変わります。
昭和のはじめに完成します。
そして、戦争により、また多くの人々が犠牲となります。
この慰霊堂は震災だけでなく、戦災の被害者の遺骨も納骨されました。

復興記念館の周囲には関東大震災の時の火炎により、ひしゃげた金属物質が展示されています。

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復興記念館に入り、展示資料を拝見しました。
1階では関東大震災に関する展示物が公開されていましたが、やはり今日は2階の空襲に関する資料を拝見したいと思います。
訪れた日が、日だけに、たくさんの方が訪れていました。
やはり、僕より年配の方が多いですが、僕より若い人もいます。

数多くの写真も展示されており、両国国技館(前のね・・)と両国小学校付近の焼け野原の様子や警視庁の屋上から撮影した銀座空襲の様子、九段下や道玄坂。動坂下で爆弾がさく裂し大穴があいた様子など、じっくりと拝見しました。

東京の空襲の年表が掲げられていました。
その前に、御年配ながら元気そうなお婆さん(90歳近いのでは?)とその息子さん(60代後半か?)が指さしながらお話をされています。

年表の一番上はあのドーリットル空襲。
そして、軍事施設を狙った照準爆撃を行っていたハンセル准将が更迭され、ルメイ少将が抜擢されます。
彼は日本に対して一番効率のいい方法として、無差別・低空・夜間・焼夷弾攻撃を推し進めます。

今、僕の目の前にいる二人。おそらく、母子。
年表には、空襲の日付と地区が記載されています。
それを指さしながら、お話をされています。
浅草区が空襲にあった日を指で追っています。
もしかしたら、この母がこの子を背負って猛火の中を逃げたのかもしれません。
立ち聞きするわけにもいかず、そこを去りました。

浅草と言えば、以前、今戸神社に行った際、そこで偶然お会いしたおじいさんから、浅草の空襲のお話を聞かせてもらったこともあります。

 

1945年3月9日、午後4時35分(日本時間)にグアム北飛行場から最初のB29が飛び立つと、サイパン、テニアン島からも次々と離陸し、2時間45分をかけて325機のB29が日本を目指します。

日本側では秒速20~30mの風は電波警戒機乙のアンテナを揺らします。
房総半島南端、洲崎監視哨で爆音を聞いたのは、日付が9日から10日に変わる直前。
そして、日付が変わり焼夷弾が投下されました。

この日は海軍のある、横須賀からも見え、陸軍の飛行場のあった松戸や柏にも燃え屑が飛んできたそうです。


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この花壇が平和の祈念碑です。
定期的にこの花壇のデザインは応募を受付、変更されているようです。

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この花でいっぱいの祈念碑の前に慰霊堂が建っています。


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この公園は清澄通りと蔵前橋通りが交差するところにあります。
両国国技館のすぐそばです。

横網町公園

両国国技館・・・・、お相撲さん・・・

よこづな・・・?

いえ、『よこあみ』です。


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コメント 6

CYPRESS

今日は。
確か広末版『愛と死をみつめて』をやった年(かその前年)にNHKスペシャルで3月10日の空襲を取り上げたと思います。その時の忘れられない事:
1:
酸いも甘いも噛み分けたお年寄りがあの日、弟さんを助けられなかったと涙を流される姿。
2:
あの日、最低気温2℃、炎を逃れ隅田川に飛び込まざるを得なかった人々。
隅田川の中で背中に背負った娘が泣かなくなり徐々に冷たくなっていった、と語った老婆。
3:
同じ様に学校のプールに飛び込んだ人々。自分がそこで溺れなかったのは底に溺死した人が何人もいたからと語るお年寄り。
4:
米軍の計画では隅田川の西側だけ爆撃する予定でしたが、火災による上昇気流で予想外の乱気流が発生し、東側に爆弾を落とさざる(!)を得なかった。

死せる者の魂、安らかに憩わんことを
by CYPRESS (2008-03-09 23:51) 

こさ

maeboo.さんみなさんこんばんわ(・∀・)ノシ
東京大空襲の頃になると各地で空襲が多くなったんですよね。
自分の両親は八王子で空襲にあったと聞きます。
当時、父はやっと6つくらい。母はもう少し幼い年齢。
両親ともに言うのは、ひゅうう、ひゅうう、バリバリバリバリと
世にも恐ろしい音のあと、あちらこちらから火の手があがり、
生きた心地がしなかったそうです。
東京大空襲ときくと海老名香代子さん(林家のおかみさん)の
ご家族とか、高田敏子さんの「ガラスのうさぎ」を思い出します。

もう、戦争はイヤだよね、マリちゃん。(故・重光葵さんの
「マリコ」@柳田邦男にでてくる一番好きで大切な、ことば。

by こさ (2008-03-10 01:45) 

saki

当時を知らない人がほとんどになっていますので、語り継がないといけないことなのですが、実感もなく、なかなかです。
こちらにも知覧の記念館もあります。このような記念館がとても大事な存在です。
by saki (2008-03-10 12:12) 

maeboo.

CYPRESSさん、こんばんは
あの夜は気象の風に加え、猛火の気流でB29もそうですし、日本の迎撃機、屠龍も月光も近寄れなかったそうです。

今、特番やっていますね。
復興記念館に石川さんの写真、展示されていました。

不謹慎かもしれませんが、ドラマ仕立てのロケ地が・・・!!


こささん、こんばんは
私のお客さんも空襲を経験しています。
四谷の家が焼け、親と弟さんは親戚に頼り、笹塚に行ったそうです。
すると、今度は笹塚が空襲に遭ったそうです。
目を覆いたくなるような惨状の中を一人歩くと、涙なども出ないそうです。感情も涙も枯れ果てたそうです。

sakiさん、鹿児島も知覧、鹿屋、他にもたくさんの基地がありましたね。
母親が子供の頃、夜、鹿児島の空がオレンジ色に染まっているのが忘れられないと教えてもらいました。

最低でも一年に一度、こういった特番を放送してくれればいいのですが。
by maeboo. (2008-03-10 21:40) 

CYPRESS

今日は。
上記の追伸
空襲の後半、爆撃ではありません。機体を軽くするために爆弾を「落としていた=捨てていた」んです。

戦争に良い戦争も悪い戦争もありません。勝った戦争と負けた戦争しかありません。悪の権化です。それ以外の何物でもありません。


「歴史は同じことを繰り返す」
「愚行の輪」

「平和とは二つの戦争の間の一瞬」

「なんぢの剣をもとに収めよ、すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり。」
~マタイ傳二六章 52~

そして絶えることのない鎮魂の祈り
死せる者の魂、安らかに憩わんことを
by CYPRESS (2008-03-10 23:21) 

maeboo.

CYPRESSさん、追記ありがとうございます。
「爆弾を捨てる」
戦争ではよくあることですよね。
マリアナから長距離を飛んでくるまだまだ故障の多いB29の搭乗員も必死だったわけで、低空侵入だから日本の高射砲でも当たる可能性があった。いち早く重い爆弾を無くしたいのは当然だった。
硫黄島を欲しがったのはB29の護衛戦闘機基地だけでなく、主目的はB29の不時着飛行場ですよね。

>「平和とは二つの戦争の間の一瞬」

一瞬の平和を見逃しているのかなぁ・・・
by maeboo. (2008-03-11 00:22) 

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