そうだ京都、行こう2018 晩秋(7)紅葉と飛行機と大石内蔵助 [紀行]
2018年11月23日
雲龍院を出た後、今回は御寺(泉涌寺)にはお寄りせず、先ほど登ってきた参道を戻り、しばらくすると御寺の駐車場があり、そこで道が分かれている。
分かれた道も下り坂。
少し空が開けていて、紅葉も目に飛び込んでくる。
3年前の夏、この道を通ったのだが、まったく印象がちがう。
もちろん、紅葉によって葉っぱが赤や黄色に染まっていることもあるのだろうが道を歩く人が多い。
一度来た道は、歩いているうちに記憶から呼び戻しやすい方だと自分では思っているが、歩きながらやや不安になってきた。
朱色の橋の手前にも分かれ道がある。
あれ?どっちだっけ?
ともかく、東福寺塔頭 龍源院の庭を見ることが出来ただけで大満足をしており、それ以降はノープラン。
ノープランながらに立ち寄った、雲龍院さんも大変すばらしかったこともあり、さらにそれ以降のノープランでどのような結果でも構わない、いざとなったら呑兵衛モードを即発動してもいいのではないかと思っているくらいだから。
なのでこの先どこかに目指すお寺は、お庭はあるのだろうから、まずは紅葉に誘われて歩いて行こうと思う。
前日の天気予報では曇り。
雨男の私としては雨が降らないだけで御の字だが、日差しが出てくれるとまだ焼け切っていない紅葉も、焼けすぎてしまった紅葉も太陽の補正で綺麗に見せてくれる。
また天気予報ではここ数日では気温は低めといい、最高気温は10℃台低め。日本海側では気温以上に北風が冷たいと言っていたが、東山地区ではその冷たい風をあまり感じずにいる。
とにかく優しい日差しが、眺める風景も一人旅する自分も穏やかにしてくれた。
と、朱色の橋を渡り、今熊野観音寺さんの境内方面へ歩く。
先ほどの分かれ道を通るときに、この道を通った記憶が曖昧でも、あっちの道ではないと思っていた。
なのに、今熊野観音寺さんの中へと通じる門まで来てしまった。
あれ?
ふと見ると、その門のわきに非常に狭く、また先ほどまで日差しに包まれて歩くように道ではなく、木々に日差しを遮られながら進める小路がある。
前回、私はこの道を通ったのだろうか?
それとも今熊野観音寺さんの境内の中から抜けたのか?
やっぱり、先ほどの分かれ道で間違ったのだろうか?
と、今熊野観音寺さんの前で文字通り右往左往していると、落ち葉をきれいに箒でさらっていたお寺の方が声をかけてきました。
「どうかいたしましたか?」
こう声を掛けられるということは、余程まいった顔をしていたのだろう。
記憶の中でははっきりと映る、そのお寺、そして重森三玲さんが作庭した珍しい庭は頭に浮かべることが出来る。
しかし、そのお寺さんの名前がすぐに出てこない。泉涌寺の塔頭であることは間違いないが。
そこで、もう一つそのお寺について私の心に強く刻まれていることがあり、それを私に救いの手を伸ばしてくれた今熊野観音寺さんの方に告げる。
「航空機事故の遭難者を弔っている、お寺さんがこの辺りにあると思うのですが」
と申し上げると、すぐに
「あ、善能寺さんですね。そちらの道を進んでいき、橋を渡った先です」
と教えていただく。
そうだ、小さな橋を渡る。そして、その橋を挟んで「大石内蔵助」とゆかりのあるお寺があるんだ。
記憶がつながり、教えていただいた道を前回も通ったのだとわかった。
お礼を申し上げて、狭い石段を降りていき、これまで優しい日差しを浴びてきたが、すこし木々に遮られる。
ただ、向かう場所が昭和46年のばんだい号墜落事故の遺族がお堂を寄進され、他の航空機事故遭難者の慰霊、そして以降の航空機の安全な航行を祈念している場所。
3年前に「重森三玲さんが作庭した、遊仙苑」を見に行き、そこでそのことを知った自分は再訪する上で忘れることはなく、先ほど道を聞くうえでもお寺の名前はすぐに出なくても、そのお寺に込められた思いは忘れることはなかったのです。
だから、日差しが少し遮られるのも心のモードを切り替えるにはちょうどいいのかなと。
記憶通りの小さな橋が見えて、それを渡る。
善能寺
泉涌寺塔頭であり、ご本尊は聖観音。
洛陽三十三所観音霊場18番札所であるが、基本的に無人のため、御朱印を頂く方は泉涌寺で頂くこととなる。
無人と言うが、決して荒れていることはない。
お寺という厳かさだけでなく、いろんな意味で空気が張っている気がする。
その感覚は自分だけなのかもしれないが、歩きながらモード切替がしっかりと済んだか確認して一礼し、境内に入る。
正面に見えるのが本堂である、祥空殿。
ばんだい号の遺族らの寄進により、建立された。
そして、見えにくいかもしれないが、大きな石組みと祥空殿の間に苔に覆われてこんもりとした築山が見える。
そばまで来て写せば、分かりやすいのだが、それは飛行機の形をしている。
東京オリンピックがある2020年の夏が五十回忌だ。
御本堂でお参りを済ませて、では重森三玲さんの遊仙苑を拝見します。
最初にこの石組みを見たときに龍を意識した。
それこそ、今朝拝見した龍源院で雲間から龍が顔を出すイメージ。
ただ、この庭を造ったのは重森三玲。
遊仙苑を作ったのが昭和47年。昭和50年に亡くなった三玲の中では後期の作。
そしてばんだい号の航空機遭難事故の後に作られたわけだから、庭に「何か」が込められていないはずがない。
今まで見てきた庭にもそのお寺にあるバックボーンが庭にも反映されていた。
3年前に事前知識なしで見たときには龍に見えていた庭。
『雲間を飛ぶ飛行機から眺める地上の風景』
三玲は遭難者や遺族の気持ちを胸にしまって作庭したのでしょう。
重森三玲としては珍しい池泉式庭園。
水を張ったらどんな風景なんだろう。
水を張れば三玲さんがイメージした北海道を飛ぶ航空機のイメージになるのだろうか。
境内には日本で最初の稲荷社と伝わる稲荷社がある。
ただ、他の場所と違って善能寺さんで切ったシャッター数は少なく、振り返って写真を探し見ても写っていない。
今回もただ一人の参拝かなと思いつつ、門を出ようとするとおよそ観光客ではなさそうな杖をつく男性とすれ違う。
軽く会釈をしてすれ違い、振り向いて一例をして先ほど渡った石橋へ
その石橋にはおよそ観光客であろう親子連れとすれ違う。
石橋の向こうは来迎院。
赤穂藩の筆頭家老、大石良雄(大石内蔵助)が主君である浅野内匠頭の刃傷事件により御家断絶となった後、その後仇討ちを果たすまでの間、一時身を寄せていた場所。
ただ、この辺りの記憶もあいまいで、3年前の訪問では来迎院には寄っていない。
今回の訪問も「ゆかりがある/過ごした」程度しか持ち合わせずに立ち寄っている。
うん、きれいだ。
本堂周辺の木々が色づいていて、東福寺で見た色づきよりもこちらの方がきれいに見える。
やっぱり光の加減かな。
東福寺さんを訪れたときはまだ雲が多かったからな。
そして、私はここに大石内蔵助が起こした書院、含翆軒を撮影することなく、後にする。
吉良方を欺く生活をしながら、元赤穂藩士とここで「討ち入り」の協議を行ったといわれる含翆軒を写すことなく。
まあ、それも一興。
また、来る機会があるだろう。
今熊野観音寺さんで道を教えてくださった方は、時間もたっているしもういないだろう。
と、思ったらまだ丁寧に落ち葉を払っていた。
簡単にお礼を申し上げ、
そうだ、今度は今熊野観音寺さんを訪れよう。
なんで、今そこでいかないのかって?
今度、含翆軒を訪れる動機付けを残す必要がある。
それじゃ、いけませんか?
朱色の橋を渡ると、先ほど来た時より
さらに空も紅葉も穏やかに、そこにある気がする。
さあ、次はどこにいこうか?
前回、泉涌寺さんを訪れたときの記憶がよみがえる。
あの時はお腹の調子が悪く、大変だったんだよな・・・と。
穏やかな気持ちは記憶の扉を開き、イメージが現実のものになることによって、あわただしいノープランの旅となる。
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